「夏休みは【ドヨウヨイチ】じゃな。今度の土曜日に行こう。」
と、おとーたんが言いました。
わたしも、すっちゃんも土曜日が来ることがとても、とてもとてもとても。。。
楽しみでした。
その日。
ゆかちゃんは、コンクール前で、部活で疲れていたのか、「ワタシは行かんわ」と言いました。
おかーかんは夜勤の前なので
おとーたんと、すっちゃんと、わたしの3人で行きました。
時々行く、
いつもなら寂しそうな駅前の商店街は夜でも明るく、楽しそうなお店が道の横にいっぱいで。
何を買おうか。
何をして遊ぼうか。
わたしは、たくさんの夜店にわくわくしながら、
おかーかんからもらった500円玉の入ったカバンをぎゅっと握りながら歩きました。
わたがし。
ヨーヨー釣り。
金魚すくい。あ。これは、やりたいけれど、山のように金魚が釣れて、持って帰ったら。
きっと、おかーかんに怒られるかな。
かき氷は食べたいな。あっちゃんは、イチゴにしようかな。
あっちには焼きそば売ってるな。そーいえば、ゆかちゃんは焼きそば嫌いなんよな・・。なんでだろ。おいしいのにな。。。。
すると
商店街の中のちょっとした広場の壁に
わたしとおなじ小学生が描いた絵や【花火】【夏まつり】と書かれた習字がみっちりと飾ってました。
あっちゃんの、
知っている子。いないかな・・・。
探していると、
一枚の絵が目につきました。
『世界中の爆弾が花火になって、この世からなくなりますように』
そういう言葉と一緒に描かれていた花火の絵。
家に帰り、
まだ起きていた、おかーかんにすぐにその【花火の絵】のことを教えてあげました。
おかーかんは、
「本当に、そうだね」と言いました。
わたがしよりも
ヨーヨー釣りよりも
金魚すくいよりも、かき氷よりも
やきそばよりも。
『世界中の爆弾が花火になって、この世からなくなりますように』
そういう言葉と一緒に描かれていた花火の絵。
なによりも、
このわたしと同じ小学生が描いた絵がとても、おかーかんに伝えたかった事でした。
ワタシが小学生のころは
夏休みは登校日なるものがある時代で、
登校日は、必ず戦争にまつわる映画を体育館で観たりしていました。
わくわくする心躍る夏休みは
反面、悲しい日本の過去を思い出さないといけないものだとかんじています。
今年は、オリンピックイヤーでもあり、
8月6日も
8月9日も
かんたんなニュースで流れる程度のようにかんじました。
たった、
70年弱前に
この日本であった、とても悲しい出来事。
忘れてはいけんな。
と思いつつも、
忙しい、忙しい!!と言いながら日々を過ごし、
時に涼しいリビングでゆっくり過ごしている自分もいます。
そんな中の、あっちゃんから教えれたことでした。
これは、
原爆投下直後に、アメリカ軍の報道写真家ジョー・オダネル氏によって撮影された写真。
以下はジョー・オダネルのコメントです。
佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。男たちは60センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広場で遊んでいる子供たちの姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意思が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたのでしょうか?白いマスクの男たちがおもむろに近づき、背中の赤ん坊をゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは、少年があまりキツくかみ締めているため、唇の血は流れることもなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去って行きました…。
昨日、この記事と写真をあっちゃんに見て、読んで、感じてもらいました。
自分と歳が変わらない男の子を見ながら
あっちゃんが何をかんがえたのでしょうか。